ピアノはヨーロッパで生まれ育った楽器です


(2) 12弟子と七年戦争とモーツァルト

 クリストフォリと同じ頃、音楽の世界では、
イタリアで、ヴィバルディやスカルラッティ父子
ドイツで、バッハ、
イギリスで、ヘンデル、
フランスで、クープランやラモー、
といった大作曲家たちが活躍していました。


まだ 「ピアノはこれから」 の時代ですが、この頃
の音楽を 「 バロック音楽 」 といいます。


当時、よく使われていた楽器としては、
ヴァイオリンの仲間 ( イタリア )
ヴィオールの仲間  
( イギリス・ドイツ・フランス )、
オーボエファゴットなどがあり、初期の頃には、
とくにリュートが人気でした。


    
 ヴィオラ・ダ・ガンバ       リュート

鍵盤楽器ではチェンバロクラヴィコード
オルガンなどで、バロック音楽の大きな特徴の
「通奏低音」(バッソ・コンティヌオ‥‥たえまなく
続く伴奏楽器の演奏 )で、和音を出せる楽器
として、重宝されていました。



このバロック時代の芸術は、その前の時代に
比べると、とてもダイナミックです。


ベルニーニの彫刻、ルーベンスやベラスケス
レンブラントフェルメールの絵画のように、
「動と静」「明と暗」のはっきりとしたコントラスト
があり、運動や変化のある、ドラマティックな
美しさが特徴です。


  

   ベルニーニ  「アポロとダフネ」


   ルネッサンス時代の、美しく完成された、静止
   した様式美を 「真円の真珠」 にたとえるなら、
   そのような円が二つ重なった、流動的で変化
   のある美は 「楕円の真珠」 である、

   つまり、その二極性がバロック芸術の真髄だ、

と、後に19世紀の美術家たちは定義しました。


音楽も、( 地域性はありますが )、速度や強弱に
対比があり、劇的な感情表現のある曲が、たくさん
作られました。

 

 ヘンデル


 ヴィバルディ

 A・スカルラッティ ( 父 )


 クープラン


 ラモー

 さて、その後、ピアノ造りの舞台は、
ドイツへと移ります。


せっかくの大発明でしたが、残念なことに、
イタリアでは、クリストフォリの亡きあと、
有力な後継者が育ちませんでした。
国中が大変なことになっていたからです。

   スレイマン大帝のオスマン・トルコが
   地中海を制覇すると、それを避けて、
   航路は大西洋を回るようになりました。

   そして、新大陸を見つけたスペインが、
   インカ・アステカから奪った富で栄えます。

   イタリアは、その 「大航海時代」 の到来
   で、交易の表舞台からはずれる一方、
   ルターの宗教改革で、これまで「絶対」
   だったローマ教皇権がゆらぎました。

   さらにその反動から、ブルーノやガリレオ
   ら科学者に加えた迫害は、イタリアの誇り
   であった文化的先進性も失わせました。

   深刻な経済的・政治的危機に悩むうち、
   スペインなど外国勢力の圧迫を受け、
   半世紀にわたる「イタリア戦争」が勃発します。

   国土は戦場となり、引き裂かれ、侵略を
   受けて、あのルネッサンスの壮麗な面影
   は、みるみる失われていったのでした。



しかしその一方、ドイツ ザクセンのドレスデンで、
ジルバーマンという、有名なオルガン製作家が、
ピアノづくりをはじめます。



   この頃のピアノには、鍵盤が49〜61本あり、
   4〜5オクターブを出せました。

   フレームには木、弦にはガット(多くは羊の
   腸‥‥ギターみたいですね)や、細い鉄線
   が使われました。

   木のフレーム!


あのバッハに試作品のテストを頼んだら、ペケを
出されてがっかりしたりしながらも、ジルバーマン
はがんばりました。



       
        高音部がショボい、タッチが重い と言ったバッハ

  たしかに傾いているピサの斜塔



 ジルバーマン製作 ザクセン 
 フライベルク聖堂大オルガン





 ジルバーマンピアノ 初期作品






   言われた ジルバーマン


 時のプロイセン国王フリードリッヒ2世は、
こうして出来あがった新しい楽器を面白がって、
いっぺんに7台(一説に15台) 買いました。


バッハも呼ばれ、王様の前でそれを弾きました。

ジルバーマンは、さぞうれしかったことでしょう!


バッハは、この王様のために、「音楽の捧げもの」
という16の作品もつくり、プレゼントしています。



 メンツェル サンスーシ宮殿の大王のフルート・コンサート
 ( フルート‥‥国王、チェンバロ‥‥カール・P・E・バッハ )


しかし、音楽と戦争が趣味の専制君主 フリードリッヒ
「大王」は、ベルリンにオペラ劇場をつくったり、宮廷
にすぐれた音楽家を集めたりして、この街を音楽で
有名にする一方、「七年戦争」 も始めます。


またたくまにドイツの国中が戦場となり、ベルリンも
占領され、国中どこでも、平和に楽器など造って
いられなくなってしまいました。


   このころ、バッハの子カールは、愛器を手放す
   ときに「 わがジルバーマン・ピアノへの別れ」

   という印象的な曲をつくっています。

ジルバーマンピアノ 改良型


 フリードリッヒ2世
 フルートが好きで、121曲を作曲
 


 大バッハの次男 「 ベルリン
  (ハンブルク )のバッハ 」 カール



 ドイツの名人ジルバーマンも

世を去り、のこされたツンペやポールマンをはじめ
とする弟子たち ( なんと、聖書の中のように、
「12弟子」と呼ばれたそうです。
師匠も弟子も、大物揃いだったんですね‥‥ )
の多くは、とうとう苦しい選択をしました。


ドイツ国内での製作をあきらめて、イギリスなど
よその国へ移住していったのです
(ツンペのように、後で帰国した人たちもいます)。


そうして今度は、他の国でも、ピアノ造りが盛ん
になっていきました。


   当時のイギリスは、市民革命の後、ちょうど
   産業革命を迎えるところで、「世界の工場」、
   「日の沈まぬ大帝国」 となるべく、ものすごい
   勢いで発展中でした。

   大都会に住み、珍しい物好きのロンドンっ子
   たちは、新しい楽器を大歓迎しました。


そうして、イギリスでも、ポータブルで経済的な
「 スクエアピアノ 」や、
「 突き上げ式 」のシングル
アクションなど、たくさんの重要な発明がなされて
ゆきます。


この、「イギリス式アクション」 は、手ごたえの
あるタッチと、重厚感のある音が特徴でした。



 スクエアピアノ 1820年頃 イギリス
 シーボルトの愛蔵品



 次の世紀、
 わが国に初めてピアノを伝えた
 ドイツ人医師 シーボルト


 また、ジルバーマンの遺産は、
フランスから南ドイツをまわるルートで、ウィーン
へも伝えられました。


  「古代ローマ帝国」、カール大帝の「フランク
  王国」の跡継ぎを名のり、中世からヨーロッパ
  の大部分を支配していた「神聖ローマ帝国」
  領主は、婚姻政策で勢力を拡大していった
  ハプスブルク家の世襲と定まっていました。


  しかし長い間に、ボヘミアをのぞく「ドイツ語
  圏外」の地域は失われてゆき、17世紀には
  あいつぐ
戦争で領内は乱れ、ウェストファリア
  条約後は封建諸侯の独立主権が認められて
  帝国は300以上の小さな国々に分裂します。


  そして 「神聖ローマ帝国」 は、名ばかりの
  存在となり、後から出てくるヴォルテール
  「神聖でも、ローマ的でも、帝国でもない」
  と皮肉られるようになります。


  しかし、ハプスブルク家が直接治めていた
  領域は、全体を呼ぶ名こそなかったものの、
  事実上1つの国家として機能していたので、
  当時の人々もこれを認め、
  「オーストリー (エスターライヒ=東の国 )」
  と呼んでいました。


ウィーンは、その実質的な首都で、数百年来、
芸術と洗練、豪奢が好きなハプスブルク家代々
当主の手厚い保護によって、美術や音楽が
大変栄えたところでした。


あらゆる楽器が広く演奏され、ヨーロッパ中から
名高い音楽家たちが集まる 「音楽の都」で、長く
暮らしてきたウィーンっ子たちの、「耳が肥えて」
いるのも当然だったでしょう。


それで、新しくやってきたばかりの、この 「ピアノ」
という楽器にも、繊細でくっきりした美しい音色、
どの音域においても乱れない澄んだ響き、強弱
のつけやすさ、メロディーの奏でやすさなど、
むつかしい条件をたくさん要求したのです。


   それで、かのベーゼンドルファーもさんざん
   悩むことになるのですが‥‥、それはまた
   後のお話です。


 16世紀中頃のハプスブルグ領


 マリア・テレジア・フォン・エスター
 ライヒ (1717〜1780)


 モレナール 「 ヴァージナル
 ( 小型チェンバロ ) を弾く女 」


 そんな課題に応じて

開発されたのが「 跳ね上げ式 」アクションでした。

これは別名 「ウィーン・アクション」 ともよばれ、
軽いタッチと、明るくまろやかな音が特徴です。


これを手がけたのは、「 南ドイツ・ウィーン派 」
と呼ばれる、ピアノ製造家のグループでした。

シュタインや、その娘で、作曲家シュトライヒャー
と結婚して工房を継いだ、しっかり者 ナネッテ、
   ( あとで、モーツァルトと一緒に登場します。
    結婚後は、家族ぐるみでベートーヴェンとも
    親しく、病気の時は看病しました )、
ベーゼンドルファー、グラーフたちが有名です。





 ウィーン・アクションのピアノ


 「ウィーン式アクションは

きわめて繊細な手でも容易に弾くことができる。

演奏者はこのアクションによって、さまざまな
ニュアンスをこめて弾くことが可能である。

はっきり弾いたり、丸味のあるフルートのような
音を出すこともできる。

大して骨を折らずに流暢に弾くこともできる。  

    フンメル ピアノフォルテ奏法 1828 」 @



少し時間は前後しますが‥‥、このように、
ウィーン・アクションのピアノをほめたフンメルは、
チェコの人で、この後登場するモーツァルトの
内弟子でした。

かれから受けついだものをしっかりショパンや
メンデルスゾーンに伝え、ピアノの奏法が、
その後、リスト、ブラームスらによってさらに
発展していく、土台固めの役を果たしました。

シューマンはとてもフンメルにあこがれ、
ショパンも口ぐせのように、
「モーツァルト、ベートーヴェン、そしてフンメル!」
と言っていたそうです。

「ヴァイマルに行ったら、ゲーテとフンメルに
会わないと意味がない 」とさえ言われたほど、
高名な人でした。

今もその功績を称え、受け継ぐ「国際フンメル
協会」「日本フンメル協会」が活動しています。



 フンメル


当代一級の知識人で
ベートーヴェンとも
会っていたゲーテ


 こうして研究と工夫が積み重ねられ、
日々新しく、生まれ変わっていく楽器、ピアノ。


   そして‥‥、
   楽器は、美しく奏でられてこそ。

   ‥‥では、どんな音楽を?


今までと同じ古いもので済むはずはありません。
「 古い革袋に新しい酒は入らない 」 のです。


新しい楽器にふさわしい‥‥、

   新しい曲、新しい演奏法を!


その、可能性にみちた面白い冒険に、
まず挑んだ一人が、若きモーツァルトでした。

 作者不詳
 「若きモーツァルトの肖像




                                                                  @ 「クラヴィーアの名器」 Im Urs Graf-Verlag
 
   
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