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ピアノはヨーロッパで生まれ育った楽器です


( 5 ) ショパンとリスト ふたりのヴィルトゥオーソ

 ショパンは、ポーランド人で、
リストはハンガリー人でした。

このふたりは、モーツァルトとハイドンがそうであった
ように、対照的な性格、生き方をしながらも、友だち
でした。
そして同時に、よきライバルでもありました。


「ピアノの預言者」「魔術師」「僧服をまとった曲芸師」
などといわれたリストは、パワフルな超絶技巧を誇り、
「ピアノの詩人」とよばれたショパンは、デリケートで
優しい、叙情性にみちた曲をつくりました。




リストは、初対面のショパンの印象を、

「自分にはない貴族のような気品に包まれている。
 まるで生まれながらの王子のようだ」

と言い、とても好感をもったそうです。

そして曲の出来栄えに感服したあとは、自分の
演奏会でしょっちゅう弾くとともに、400人以上いた
弟子たちにも、必ずショパンの曲を教えました。

その後も、内気で人見知りで、なかなか人に
会いたがらないショパンに、どうしても会いたい人
がいると、名刺に 「 通行許可証 リストより 」 と
書いて渡したり、なかなか面倒見がいいのでした。




けっこう人づき合いの苦手なショパンでしたが、
数少ない親友のひとりに、画家のドラクロワが
います。

かれは、ショパンがジョルジュ・サンドと暮らした
ノアンにも招かれており、後に、

「‥‥わたしの心の中のノアン、
 慰め、生き返らせてくれるところ、
 そしてわたしを夢中にさせる数少ないところ‥‥」

と書き残しています。




公衆の面前では気後れするあまり、一時はステージ
恐怖症にもおちいっていたショパンですが、リストには
隠さずに、


「僕は、演奏会にはむいてません。
 大勢の聴衆におびえてしまいます。

 彼らの高鳴った呼吸で息がつまりそう、
 好奇心むきだしの視線でマヒしそう、
 知らない顔ばかりの前で、声も出なくなりそうです。

 でも、あなたは演奏するよう、運命づけられている
 んですね。

 聴衆を魅了できない時には、圧倒してしまうんです
 から !」

 と言ったそうです。



 
  
当時のコンサートホール



 リスト


 ドラクロワ 「自画像」


 ドラクロワ 「ショパンの肖像」


 アムブロジー 「若きショパン」


 「ショパンのスケッチ」

 ショパンの手紙

「 走り書きをお許しください。


  というのも、リストがわたしのエチュードを弾いて、

  わたし自身の曲でわたしを夢中にさせたからです。


  自分のエチュードを弾くすべを彼から盗み取りたい

  ほどです! 」 ⑤

                         [signature]

                           
        ショパン 



リストの手 石膏モデル

 リスト (1811~1886)
超人的なテクニックを使ったダイナミックな演奏が
有名で、子どものときにデビューして以来、旅する
ピアニスト、指揮者、作曲家、お坊さん、校長先生
と、忙しい人生をおくりました。



ピアノ演奏をツェルニー(この人はベートーヴェン、
クレメンティ、フンメルの弟子だったので、リストは
かれらの孫弟子になります)に、作曲を宮廷楽長
のサリエリ ( フィクションですが、どーしても、
『アマデウス』のあのにくめない甘党イメージが‥‥)
に習いました。



彼の演奏は華麗で豪快、情熱的で、途中で楽譜を
投げ捨てる (完全暗譜) など、はでなパフォーマンス
もしょっちゅうで、絶大な人気でした。


でもそのかげで、録音技術のなかった当時、簡単
には聴くことのできなかった、たくさんの交響曲、
弦楽曲、歌曲などをピアノ曲にアレンジして、多くの
人たちに伝えたり、たくさんの優秀な弟子たち ( サン
=サーンス、世界初のプロ指揮者 ハンス・フォン
・ビューロー、ルビンシュタイン らが有名です ) を
育てたりしていました。


無名の新人の後押しをしたり、貧しい生徒には無料
で教えたり、とてもよい先生だったといわれています。



そうしたかれの仕事は、 ロマン派のあとにつづいた
印象派の、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフらに
大きな影響をあたえました。


また、今のような形の演奏会 「 ( ソロ )リサイタル」
をはじめた人で、ワーグナーの義理のお父さんでも
あります。


交友関係がとても広く、
バルザック、ユゴー、デュマ、
ドラクロワたちとも友達で、
音楽家では、シューマン、
ベルリオーズたちとも親しくつきあい、ショパンと
サンドを引き合わせたのも彼でした。



なお、ベートーヴェンと並ぶ 「 ピアノ泣かせ 」 でも
知られた有名人です。


コンサートにはいつも、七つ道具と取替用パーツを
もった、上手い ( 早い!) 技術者たちを待機させ、
さらに念のため、予備のピアノ数台も舞台袖に‥‥。


友人でもあった、ピアノ職人のカミーユ・プレイエル
は、リスト演奏後のピアノの惨状を

「‥‥まるで戦場でした。

 わたしは負傷者や戦死者の数をかぞえました‥‥」

と、友人に書き送っています。




             
              「リストの演奏法」 カリカチュール


     
      アリーシェファー 「砂漠でキリストを誘惑する悪魔


     これは、ルーブル美術館収蔵の有名な絵です。
     このアクマのモデルがリストだ、というのは定説ですが、
     一説によれば、キリストも‥‥。
       どうご覧になられますか?


           

 
 ツェルニー


 「サリエリの肖像」


 ハンス・フォン・ビューロー


 ドビュッシー


 ラヴェル


 ラフマニノフ


 ワーグナー


 ドーミエ
 「ベルリオーズの肖像」


 彼の手にかかると、
ピアノは生きて帰れない‥‥?

しかし、リストは、ピアノの幼年期の終わりを目撃
します。


彼やベートーヴェンを泣かせた ( 怒らせた )、
あの 「 ひ弱さ 」 は、きっぱりとなくなりました。


ショパンは、惜しくも若くして亡くなったので無理
でしたが、1歳年下だったリストは幸いにも長命
だった上、ピアノの進化は目覚しかったので、
ほぼその完成形を見ることができたのです。


では、そのたくましく成長した姿を見てみましょう。





 晩年のリスト

 新たに改良されたポイントは

次のようなものでした。


【 交差弦 】

それまでのピアノはすべての弦が平行に張られて
いたため、とくに長い低音弦の部分では、かなりの
奥行きが必要でした。


それで、短い高音弦の上に交差して、斜めに張る
工夫をしたのです。



これで、ピアノ本体をかなりコンパクトにすることが
できました。



たとえば、アップライトピアノは、昔は、もっと背が
高く‥‥極端な場合、2~2.5メートルほどもある
大きなものがありました。

それは、グランドピアノの鍵盤より奥の部分を全部、
ただ単純に立てただけだったからです。





 グランドピアノの交差弦



 
 
 
アップライトピアノの交差弦 ( ピアノは前を向いています )

 ピアノの弦 ( 高炭素鋼製 )


 ヒッチ-ピンに引っ掛けて‥‥


 伸ばして張って‥‥


 チューニングピンに
   巻きつけて‥‥

 ピンを廻して、弦の張り具合を
   整える

        
 
この最後の作業が 「調律 」
     Piano tuning です。


 ちなみに、グランドピアノが先、
アップライトピアノが後にできています。


ここまで、ピアノの誕生から足跡をたどってきましたが、
ご覧のとおり、クリストフォリの第1号機以来、ピアノは
ずっと、今でいう 「グランド型」 でした。


弦の張り方や響板の形など、ピアノの構造は、グランド
型を基本に出来あがってきたので、時々耳にするような、
「アップライトの豪華版がグランド」というのは誤解です。


新大陸アメリカでは、19世紀後半に大陸横断鉄道
が開通するまで、あの広大な国土を、荷馬車と人力
( と、根性‥‥!) だけでピアノを運んでいました。




 「ロッキーを越える幌馬車隊」

それは、果てしない大平原、大山脈、無数の峡谷や
大河と、困難をきわめた苛烈な旅路でした。


「スクエアピアノ」( 前に出た、イギリス製 「シーボルト
のピアノ」 がそうです ) という、ふたを閉じると机状
になる手軽で安価な楽器も造られ、一時は広く普及
したのですが、音質も機能も、やはり、ふつうのピアノ
とは大差があったので、本物の小型化・軽量化が、
熱意をこめて急がれました。



そうした流れの中、19世紀初めにフィラデルフィアで
アップライトピアノ第1号が開発され、以来、研究改良
が重ねられ、現在の姿に進化してきました。


ですから、もともとの輸出元‥‥ピアノの故郷である
ヨーロッパ ドイツ語圏からみれば、起源が輸入品
になるアップライト型のことは、外来語 (英語) の
まま、「Piano ピアノ」 と呼ぶことがあります。




 ふたたび クリストフォリ号


 現代のピアノ



 グランドピアノ用アクション
 ( 弦を下から打ちます )


 アップライトピアノ用
 ( 弦を横から打ちます )

 他の改良点には、
次のようなものがありました。


   【 足ペダル式ダンパー 】

ダンパーとは、ある鍵盤を打ったとき、その鍵盤
担当の弦以外が共振して鳴らないよう、ふだんは
弦にぴったりくっつけてある消音装置のことです。


現在のピアノでは、一番右が 「ダンパーペダル」
で、踏むと、すべてのダンパーが弦から離れます。

打った鍵盤の弦だけでなく、すべての弦が共鳴
しますから、とても豊かな音が響きます。

ペダルを踏むのをやめると、ダンパーが元の位置
に戻り、ほかの弦の共鳴をストップさせます。


初期のころは、ハープシコードの時代のなごりで、
ペダルは手や膝で操作していました。

それを、ピアニストが、足元にあるペダルで操作
できるように改良したものです。



   【 アグラフ 】

弦を留める金具です。

弦が所定の位置からはずれないように、
穴から通して固定します。



   【 フェルトハンマー 】

弦を叩く、木製の小さなトンカチです。

その頭が直接弦にふれて音をつくる、たいへん
重要な部品なので、革・布・スポンジ・ゴムなど、
いろいろな材料が試されました。


結局、羊毛に熱や蒸気を加え、圧縮して作った
フェルトが最適だとわかりました。

フェルトには柔軟性や弾力性がある上、硬く
なってしまったら、適度に針を刺すことで、また
やわらかく復元できる可塑性もあったからです。



     


  当時のピアノ工房    スタインウェイ   ハンブルグ 1880 

 ダンパー
 ( 横に長く黒い部分 )

 
右端がダンパーペダル
  ( 別名 ラウドペダル )

 アグラフ


 フェルトハンマー


 ピッカーで針を刺す

        

 この作業を 「整音」 といいます。
        voiceing

  非常に神経をつかう作業です
  が、きちんとできれば、音質は
  格段によくなります。


 しかし、中には、解決不可能
と思われるような難問もありました。


たとえば、フレームの強化などがそうです。


フレームとは、弦の張ってある枠 (今のピアノ
では金属で、たいてい金色に塗られていますね)
のことです



音域を広げるためには、弦の数を増やさねば
なりません。


しかし、それにともなう、フレームへの負担は
すさまじいものなので、
とても耐えられるような
素材が見つからず、技術者たちは長いあいだ
頭を抱えてきました。



現在のピアノで見て見ましょう。


1本の鍵盤 ( につながったハンマー ) には、
最低音で1本、低音部には1~2本、中音部
から高音部にかけては3本の弦が、用意
されています。

ということは、ピアノ全体では「
×88( 鍵 )」、
合計200本以上の金属ワイヤーが必要です。

そのすべてがギリギリ引き締めて張られると‥‥、
フレームにかかる張力は、全体で約20トンにも
及びます。

とても木製では耐え切れません。



しかしやがて、アメリカで、豊富な鉱物資源を
利用した冶金工業が発達すると、金属を使った
「一体型フレーム」 作りに成功し、この難問は
解決されました。


そして、この大変堅牢な鋳造フレームの発明は、
ピアノの楽器としてのポテンシャル ( 潜在能力 )
を、画期的に広げたのです。


 
鋳造フレーム  グランド型


 
アップライト型

 
フレームを保持する支柱

  こうして、数え切れない

(‥‥こまかく見ていくと、本当にすごい数の創意
工夫があります ) 先人たちの努力が実って、
ついに、88鍵、音域7オクターブの、わたしたち
が今日、目にするようなピアノが実現しました。



          



それは、ピアノ製作者と演奏者が、目の前の課題
解決のために腹蔵なく意見をたたかわせ、希望と
失望を繰り返しながら、地道にひとつずつ積み上げ
ていった、苦難の末の成果でした。



試行錯誤と悪戦苦闘を共にした、両者の緊密で
親しいつながりは、先のバッハとジルバーマン、
それからモーツァルトとシュタイン、ベートーヴェン
とシュトライヒャーなどのケースが有名ですが、
フランスでは、先にあげたショパンとプレイエル
が知られています。



かれのそばには、いつも仲間の音楽家たち、
ショパン、リスト、カルクブレンナー、タールベルク、
サン=サーンスらがいました。









 サン=サーンス


 ショパンのピアノ

「‥‥シュタインは、すぐにピアノを送ってくれた 」
「‥‥でも、グラーフのピアノのほうが、もっと優秀
 だと思うよ 」


ショパンは、ウィーンで暮らしているあいだ、故郷で
待つ家族にむけて書き送っています。

    ( 上の両者は、当時のウィーンを代表する
      製造者だったので、次の 「オーストリー
      のピアノ 」 のページにも出てきます )。



しかし、最終的にショパンが選んだのは、プレイエル
でした。


のちに、スペインのマヨルカ島に出かけたときも、
帰ってきてサンドと暮らしたノアンにも、船で、馬車で、
わざわざプレイエル・ピアノを運ばせるなど、その
こだわりは非常に強いものでした。


なぜだったのでしょうか。



 
シャルパンティエ
 「ジョルジュ・サンド」


 ノアンの館


 演奏家に、ある楽器が選ばれるのは
いつも相応の理由があります。

もちろんショパンの場合もそうです。



ショパンの最初のコンサートも最後のコンサートも、
使われたピアノはプレイエル‥‥。

それがショパンの選択でした。



芸術家にとって、そうした基準は、内なるイメージ
や自己認識から必然的にうまれるものですが、
ショパンは天才でしたから、それらはとても正確で、
かつ強力だったのです。



かれは繊細で病弱でありながら、自分という存在の
核心を深く見つめ、ついには普遍的な、すべての人
の魂に届く作品をつくりあげました。


他の多くの作曲家たちとちがい、もっぱらピアノという
楽器に専心して、内面的な、深い詩情をたたえる
珠玉の名曲をのこしたショパン。


かれは自分のすべての作品に対してとても真剣で、
最期の床でも、友人に、未完の作品を捨てるよう
くれぐれも頼んでいます。



そんな彼が、生涯、自分自身を託す 「音」 に
こだわったのは、当然のことだったでしょう。



 
ショパン パリデビューの案内

 「‥‥彼のメロディには魂が
 こもっていて、どのフレーズも
 そのままファンタジーである。
 すべてが独創的である。」
 と絶賛されました。




 ‥‥「 わたしの音 」 は、こうでなければならない、

やさしく、憂いをふくみ、透明で、
   その連続する流れの中に
      いつか自らも溶けいるような‥‥。


たぶんショパンは語りかけたかったのです、
すべての芸術家がそうであるように。


人の声のように語る音、ささやく音、歌う音
をつかって、彼にしか表現できないものを、

彼の望みのまま、一音一音‥‥聴衆に、
    ‥‥ときには自分自身に。


      


かれはまた、誰にでも、どんな音楽にでも
あてはまる、プロトタイプな 「 美しい音・響き 」 
というものは無いのだ、と知っていました。

そして音楽家のみる夢は、ある程度、「楽器」
という現実に規定されてしまうことも。


ですから、「 自分のピアノ 」 を見つけたことで、
「 自分の声 」 を、広く、深く、世界へ向けて
響かせることのできたかれは、
音の芸術家として幸福だったといえるでしょう。





 別れた恋人 ウォジニスカ
 が描いたショパン






  
ダ・ヴィンチ  「若い女」


 「 わたしは、

気分のすぐれないときには
   エラールのピアノを弾く。

あのピアノは、既成(レディメイド)の音を
出すから。

でも、身体の調子の良いときは
   プレイエルのピアノを弾く。

このピアノからは、自分自身の音を
造り出すことができるから 」
                      F・ショパン




 ドラクロワが描いた「ノアンの花」

                                                                     ⑤ 「リスト」 大宮眞琴訳    Dent社   
                                                                     ⑥ 「ピアノ演奏の歴史」 シンフォニカ社   

   
            ヨーロッパ輸入ピアノ専門店 バロック